コニー・ウィリスの『航路』を読んでいて、
『ドゥームズディ・ブック』とも通底する
この書き手の「関心のありか」みたいなのを感じてる。

ここで、現実のとらえかたに、
「現実そのもの(流れる時間)」と「お話(ストーリー)」と
二つあると、おおざっぱに仮定します。

「お話」というのには、人間独自のとらえ方で、
抽象化(概念化)され、因果づけられ、再構成され、ひとつの視点を
付与された「語り」ということです。

映画でいえば、ノーカットでだらだら〜っと
リアルタイム撮影してるのが「現実そのもの」で、
カットされ編集されBGMつきなのが「お話」ですね。

さて、その「関心のあり方」というのは、
ふつうは「お話」のやり方でとらえられる「歴史」を
「現実そのもの」のやり方で語るということ、

なのではないかと思っている。

映画の『マリー・アントワネット』の撮り方も
すこし、そんな感興を覚えた。
キューブリックの『バリー・リンドン』みたいなのは「お話」よりなのね。
マリー・アントワネット』の撮り方はあきらかにそれと違う。

話はずれるけど
DVDのチャプター機能で、
メニュー場面にちいさく並んだ
各チャプターをしめす静止画像に
マウスオーバーすると、
そこが魔法が解けたみたいに
動き出すやつあるじゃない。

(あれが私は、なんか、すきだ! あれは泣ける!)

そこを選ぶと、それは並列した静止画像であることをやめて
息を吹きかえす。
その「感じ」とちょっと似てる気がする。

過去の時間に入り込むことで、
いやおうなく時間というものにとり込まれていることを突きつけられ、
「今」「これ」を見ているものの姿を探して、
ふと、上を見上げてしまうようなせつなさがある。

本の中に、いろんな人の「最期のことば」が出てきます。それがめっぽう面白いよ。
世界の災害の本がほしくなった。
ロードスターに乗って、首のスカーフを翻しながら「アデュー、わが友! 天国(グローリー)へ行ってくるわ!」と言ったイザドラ・ダンカンとか。(その一瞬のち、スカーフがロードスターのスポークにからまって、首をしめられて本当に死んだ)

それから、『最後のウィネベーゴ』は短編集で、
コメディっぽいの3本と、シリアスなもの1本です。これも良かった。