構造体とラベルがベッタリしている場合には、自由や可能性はない。バナナをみるとバナナと発音するオウム。ラベルと構造体を分節できるということでもまだ十分じゃない。オハヨウ。今日は晴れているね、と晴れている日に常に話すオウム。曇っている日には今日は曇っているねと話す。スーパーヴィーニエントしているということは意味がわかっているということか? なおかつ一切意味がわかっていないということはありうるか。
あれをこれ「として見る」ことができることは現実ベッタリからの飛躍だ。このことと言葉はどうかかわっている? 私はそれは〜だと思う(現実とは違うかもしれないけど)。約束する(現実とは違うかもしれないけど)。態度の表明(違うかもしれないけど=違うかもしれない可能性)。仮想化&志向性。この現実から浮かせる操作をつかってどんなことができるか。