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年月っておそろしいくらいすばやく流れていくのねん。犯罪的だよこりゃー。
ともすると昨日食べた食事のことすら思い出せもしないのだから二年前のことなどとおい
ゆめのなかぁーであって例えば、2000年になにしてた?とか言われて思い出せることが
ああ……ひとつもない。ひとつも。
当時書いていた日記は、ハードディスクのどこかに残っているかもしれない。
ハードディスクのどこかに……。
私はいま、記憶について考えている。
そう。
私たちの記憶は年々短くなってきているのではないか、という疑惑をいだいている。
てけてんてんてん。
むかし、むかし、まだ紙もなかった時代には、死んでしまったものを忘れないために
忘れ去らないために、はたまた忘れ去られないために、人間たちは歌を歌った。
言葉はトリガーだ。記憶の。
凝縮だ。記憶の。
エッセンスだ。
記憶はトンネルのように、人間たちをつつむチューブのように、過去と未来に通じていた。
彼らはそれを、実感していただろう。記憶の分厚さの、手触りを感じていただろう。
おのおのの記憶は、振り分けられ、煮詰められ、どろどろにとかされて、みなみな様の血中に注射されたのでした。
しばらく時間が過ぎると、世界のあちこちで、粘土板やら紙やらが発明されて、記憶は物質になった。
言葉は物理的存在になった。
死んだ人の語る言葉を、書かれた言葉を通して直で聴けるようになったのは、そのころからだ。
だろう?
書かれた言葉のうらには書き手がいる/いた。
そうして私たちは、他人に内面を認めるようになった。
そもそも死んでいる他人に。
真実を言えば、私たちは瞬間毎に死んでいる。
自分でさえも、瞬間前に死者になっている。
生きてるなんて、錯覚だ。
感動するのは、死んだものが向こうから語りかけてくる瞬間じゃん?
だって私たちは死んでいる、っつーかいずれ、死ぬ、私にとってこれはもおのすごい不条理だ、死んでみるために生まれてきてよかったような気もする。死ぬってどういうことだ? いないってどういうことだ? わからないけど、わからないけど、それは確実にある。ふつうにある。なんで? 意味不明だ。べつに人間だけが死ぬことを考えるわけじゃない。豚は殺されるとわかったら悲痛な叫び声をあげる。死ぬことを知っている。猫もイルカも死に場所を探して、消える。
たとえば、手紙。
死者からの思いがけない返事に、人間は確実に打たれる。
たとえば過ぎ去った時間が、(いなずまのように)現出する瞬間(戻れない時間が)。
映画やアニメーションはじつはコマ送りなんだけど、
一秒に24コマとか?わかんないけど、連続してぱらぱらと見せると、
人間の目には動いているようにみえる。
おお、実は世界はそんなに粗雑にできている。
いまのところ、時間というのは無限に分割できる。
ということになってんのかな???
物理学がわかんないのでごめん。
なんか分割できない方向に進んでるんじゃなかったっけ。
わかんないけど、まあ、
物質というのはじつは「すかすか」であることはたしかだ。
時間というのも(←定義上分割できるニュートンの時間じゃないよ)
「すかすか」かもしれないよね。
世界の側も。←私は素朴な実在論者。
閑話休題。
ともかく世界の側は死んでいるのであって、生きているのは私たちだけだ。
というか私だけだ。
だけど思いがけなく、(本当に思いがけなく)生きている、ということは、
「繋がっている」ということなんだ。
コミュニケーションがとれる、っていうことなんだよ。
錯覚であろうとなかろうと、感じてしまったらそれは実体なんだ。
………
ばらのしげみに向かって、一方方向に話しかけている間は、
生きているのは君だけだったね。
………
昨日の私と、明日の私が繋がっていることが生きているということだし、
他人と繋がってることが生きているということだし、
動物たちと心が通じるのが生きているっていうことだし、
じゃあああああああ、神様。
思い出されない記憶はどうなってしまうの?
誰にも読まれない本は死んでいるの?
フェリーニの「8と1/2」という映画が、なにをえがいていてあれだけすごいのか、
それは忘れられた記憶すなわち死者の、向こうからの(向こうからの)思いがけない
生きている、生きていたという便りがあったから、
死んでいたこころがよみがえる瞬間をフィルムに収めているから。
生命力は幽霊からくる――のね?
(それからねー 『エレGY』でじすさんが時空メールを書くところで私は泣いちゃった。
それは思ってもみない、未来からの返信だったからだょ なんど考えてもいい話だお☆)
イニシエーションというのを知ってるかい?
成人になる儀式のことだよ。洞窟にこもったり、バンジージャンプをしたりして、
いっかい死んで(幼少期を殺して)大人になる儀式のことだよ。
儀式とは少しずつ死ぬことだ。記憶に句読点を打つことだ。
そのたびに弔うことで、死が日常を侵食することを防いでいるのだ。
だって私たちは実は死んでるけどそのことにいつも気がついていたらおかしくなっちゃうよ。
怖いし、意味や価値が真空にすいこまれっちゃうよ。
意味や価値なしに生きているということはどういう状態だろう
記憶は物質になり、私たちはインディヴィジュアルになった。
塵のようなパーティクルになった。
私たちのへその緒は切られた。反射しあう言葉だけが、私たちをつないだ。
かわりばえのない毎日が記憶に残らず、
あるいはあまりに多くのことが起こりすぎるせいで
何事にも興味を持たなくなってしまったなら。
そしてまたときどきまとめて死んでみることをせずに
何ごとも等閑視しているなら。
記憶をハードディスクに外在化して、頭はからっぽにしているなら。
私たちは、逆に、きりきりと毎秒死ぬような
毎秒が選択であるかのような状態に立ち戻る。
忘れ去られ切り捨てられる記憶に逆襲される。
意味や価値から切り離される。
私にとって、世界も人も死んでしまう。
☆ ☆ ☆
話が長い!!!!!!!!!!
さて。
きょうは深大寺にいってきたよ。神代植物園でバラフェスタがやっているからだ。
バラ園ってつまんないけど、デガダンスなかんじでいいよね。