借金が棒引きされること

先日、「プロフェッショナル」というテレビ番組で借金をかかえた会社をたすける弁護士の活躍をみた。1億円くらいの借金が20万円くらいに棒引きされていた。いっしょにテレビをみていたひとが「えー、そんなんでだいじょうぶなの? どういうこと? お金がなくなっちゃっていいの?」と驚いていた。
はあ?
と思ったのだが、あとで考えてみると、彼はお金というものをものすごく実体的にとらえているのだなと思い至った。

1万円は1万円。

その価値はおさつに宿っていて、モノと同じようなもので、かんたんに「消えてしまう」ことが納得できない、というわけ。

銀行や、投資家は、いろんなところにお金を貸す。
そのうちのあるパーセンテージは、利子つきで戻ってくる。
そのうちのあるパーセンテージは、戻ってこない。これがお金を貸すときのリスク。

利息というのは、ある意味、お金を貸すときの、保険になっている。
銀行や、投資家は、局地的に借金をチャラにしても、ほかのところでもうけていれば、
全体で大丈夫なのだ。
がんばっても取り立てられない不良債権は、むしろはやめに切り離した方がいい。

つまり、返済には、みえないけど、誰かが借金をチャラにする分
もあらかじめコミになっていると考えられる。
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私たちはたとえば25万円かせいだら、その25万円はぜんぶ、自分のものだと
思ってしまいがちだ。

でも、そうじゃなくて、
私たちは、借金を返せなくなるかもしれない(=病気になったり、事業に失敗したり、
働けなくなったり、するかもしれない)。

それに、私たちは、そもそもお金を稼げなかったかもしれない(障害があったかもしれない、
やとってもらえなかったかもしれない、etc...)

私たちは、そういう可能性を、あらかじめお金にコミにして、考えるべきだと思う。
そこに25万円あったら、そのうちのいくらかは、保険なのだ。
(すでに、健康保険とか、年金とか、税金という名目で給料から天引きされてるわけだけど。)


☆追記

あらためて読んでみると意味わかんないなあ

たとえばCMとかの制作費って何千万円もする(とききます)

○この100円のおかし、なん個売ったらその制作費のモトがとれるんだろう?
○CMしなくていいからもうちょっと安くしてよ

なんて思うことがありますが、それもたぶん、宣伝費コミでペイできるように
最初から値段設定がされているのですよね?

ブランドイメージを高めてもらったり、
商品を(じぶんに対して)宣伝してもらうために
わたしたちはどんくらいお金を使ってるんだろう?

なんかそれってむだじゃない?
「実体」のぶんだけなら、値段はどのくらいになるのかな?
なんて思ったりしますが、実際にはそんな実体なんてないのです……

鉄をあついうちに打たなかったので冷えてしまいました。



スチュアート・ダイベックが、柴田元幸との対談で、
「なつかしい」ということばが英語になかったのは幸いだった。
もしそのことばがあったら、私はそれをめぐってのすべての物語を書かずに
「なつかしいね」と言って終わらせていたかもしれないからだ。
という趣旨のことを述べていた。


ことばは物語の結晶 短歌よりも短い詩。


昨日、新宿駅で疲れてしまった

ので、ギターをひいているおじさんの近くで目を閉じられてた。


いま殴られたら死んでしまう。
そんなことは起こらない。夜の十二時過ぎ。

ギターの音はとてもよかった。音階が空間をかけのぼっていくのと

それにのってうっとりしたかった…
しかし現実的な人間であるところの私は、
そこから移動した。それでもその音は耳の奥で聞こえていた。


それから愛と感情というものについて考えた。


感情の水域というものは、

じわじわと広がっているのではないかということだ。

いちばん高い水位の線は残されていて消えないのではないか。
波を被るたびに更新されていくのではないか。


そのひとが死ぬまで、そのひろがりは消えない。







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すぐそばのくらやめ



みちをとおくかさぶり
めをとじなくてもわかる

しょうがつ。下旬。


ゼリーのように

せりーのようひ


昆虫が一匹

そぐそはのくらやり
私から一歩はなれるでもなく

めをとりなくてろくやらり

私は情緒的な人間なので、そのことがときおり怖くて仕方がないのだ。

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そうした問題があることを知らなかったのだが
今日知った問題。

重度の知的障害+身体障害をもつこどもへの
成長抑制剤投与の是非。

なんともびみょう。


親の立場からは世話をすることの楽。
こどもにとっては世話が容易になることの副次的な快、外へ連れ出されることの快。
(※こどもの意思は確認できないケドそういうことはありそう)

一方で、それを容認することによって第三者的に起こってくる倫理的な問題。
その立場に近い(あくまで近い)ひとたちの不快。副次的に起こってくる不快。
こどもにとっての不快。
(←直接的実質的不快が実際あるのか知らないのでわからない。自然な生が一番いいのかは不明)
そして線引きの難しさ。

理想論で生きてるわけではないのでむずかしい。

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あけましておめでとうございます。

グレッグ・イーガンの新刊『tap』を読みました。

表題にもなってる短編「tap」はすべてをあらわすことができるオルタナティヴな言語をあやつる新人類の登場をえがいた佳作で、それをつかえばことばであらわしようのない「この瞬間」をあやまたずすくいとり他者に伝達できるという。(外側から意味を伝達できるだけではなく「内側から感じる」モードもある)

際限なく繊細なことば。リアリティの深度。
でも完璧な言語なんてよくわからない。
どこかで線をひいて、分節する以上、言い落とすことはあるし、どこで分節するのかどうやって決めるのかな。言葉のないところに言葉を作るその衝動はどうやって生まれるのかな。

いくつかの短編の中で、なんといっても「ユージーン」が収穫でした。こういうのだいすき! せつない非在の存在モノです。そんなジャンルはないけど。

はじめて知りましたが、イーガンは初期にはホラー作家だったようで、まあどちらかといえば凡庸なホラーもいくつか入っておりました。

ジョン・クロウリーの『エンジン・サマー』が復刊されていて、読めてうれしいです。
エンジン・サマーというのは、インディアン・サマー(小春日和)ということで、文明崩壊後、人類の終末へむかう世界の、落日の、つかの間のたそがれ、小春日和というのは、なんつーか一種のユートピアのようでとてもほっとする。

終盤に唸るシーンがあって、これはもっともっと前に読んでおきたかったなと思う。
今読んでもなぜかそれほど驚けなくて、身に迫ってこなくて、なんかもったいなかった。

年月っておそろしいくらいすばやく流れていくのねん。犯罪的だよこりゃー。


ともすると昨日食べた食事のことすら思い出せもしないのだから二年前のことなどとおい
ゆめのなかぁーであって例えば、2000年になにしてた?とか言われて思い出せることが
ああ……ひとつもない。ひとつも。


当時書いていた日記は、ハードディスクのどこかに残っているかもしれない。

ハードディスクのどこかに……。


私はいま、記憶について考えている。

 そう。

私たちの記憶は年々短くなってきているのではないか、という疑惑をいだいている。

てけてんてんてん。

むかし、むかし、まだ紙もなかった時代には、死んでしまったものを忘れないために
忘れ去らないために、はたまた忘れ去られないために、人間たちは歌を歌った。

言葉はトリガーだ。記憶の。
凝縮だ。記憶の。
エッセンスだ。

記憶はトンネルのように、人間たちをつつむチューブのように、過去と未来に通じていた。
彼らはそれを、実感していただろう。記憶の分厚さの、手触りを感じていただろう。
おのおのの記憶は、振り分けられ、煮詰められ、どろどろにとかされて、みなみな様の血中に注射されたのでした。

しばらく時間が過ぎると、世界のあちこちで、粘土板やら紙やらが発明されて、記憶は物質になった。
言葉は物理的存在になった。

死んだ人の語る言葉を、書かれた言葉を通して直で聴けるようになったのは、そのころからだ。
だろう?

書かれた言葉のうらには書き手がいる/いた。
そうして私たちは、他人に内面を認めるようになった。
そもそも死んでいる他人に。


真実を言えば、私たちは瞬間毎に死んでいる。

自分でさえも、瞬間前に死者になっている。



    生きてるなんて、錯覚だ。


感動するのは、死んだものが向こうから語りかけてくる瞬間じゃん?
だって私たちは死んでいる、っつーかいずれ、死ぬ、私にとってこれはもおのすごい不条理だ、死んでみるために生まれてきてよかったような気もする。死ぬってどういうことだ? いないってどういうことだ? わからないけど、わからないけど、それは確実にある。ふつうにある。なんで? 意味不明だ。べつに人間だけが死ぬことを考えるわけじゃない。豚は殺されるとわかったら悲痛な叫び声をあげる。死ぬことを知っている。猫もイルカも死に場所を探して、消える。

たとえば、手紙。

死者からの思いがけない返事に、人間は確実に打たれる。

たとえば過ぎ去った時間が、(いなずまのように)現出する瞬間(戻れない時間が)。

     映画やアニメーションはじつはコマ送りなんだけど、
     一秒に24コマとか?わかんないけど、連続してぱらぱらと見せると、
     人間の目には動いているようにみえる。

     おお、実は世界はそんなに粗雑にできている。


     いまのところ、時間というのは無限に分割できる。


     ということになってんのかな???
     物理学がわかんないのでごめん。
     なんか分割できない方向に進んでるんじゃなかったっけ。
     

     わかんないけど、まあ、
     物質というのはじつは「すかすか」であることはたしかだ。

     時間というのも(←定義上分割できるニュートンの時間じゃないよ)
     「すかすか」かもしれないよね。
     世界の側も。←私は素朴な実在論者。

               閑話休題

ともかく世界の側は死んでいるのであって、生きているのは私たちだけだ。

というか私だけだ。

だけど思いがけなく、(本当に思いがけなく)生きている、ということは、
「繋がっている」ということなんだ。

コミュニケーションがとれる、っていうことなんだよ。
錯覚であろうとなかろうと、感じてしまったらそれは実体なんだ。

   ………


ばらのしげみに向かって、一方方向に話しかけている間は、
生きているのは君だけだったね。



………

昨日の私と、明日の私が繋がっていることが生きているということだし、
他人と繋がってることが生きているということだし、
動物たちと心が通じるのが生きているっていうことだし、


じゃあああああああ、神様。
思い出されない記憶はどうなってしまうの?
誰にも読まれない本は死んでいるの?



フェリーニの「8と1/2」という映画が、なにをえがいていてあれだけすごいのか、
それは忘れられた記憶すなわち死者の、向こうからの(向こうからの)思いがけない
生きている、生きていたという便りがあったから、
死んでいたこころがよみがえる瞬間をフィルムに収めているから。


生命力は幽霊からくる――のね?


(それからねー 『エレGY』でじすさんが時空メールを書くところで私は泣いちゃった。
 それは思ってもみない、未来からの返信だったからだょ なんど考えてもいい話だお☆)


イニシエーションというのを知ってるかい?
成人になる儀式のことだよ。洞窟にこもったり、バンジージャンプをしたりして、
いっかい死んで(幼少期を殺して)大人になる儀式のことだよ。

儀式とは少しずつ死ぬことだ。記憶に句読点を打つことだ。
そのたびに弔うことで、死が日常を侵食することを防いでいるのだ。

だって私たちは実は死んでるけどそのことにいつも気がついていたらおかしくなっちゃうよ。
怖いし、意味や価値が真空にすいこまれっちゃうよ。


     意味や価値なしに生きているということはどういう状態だろう


記憶は物質になり、私たちはインディヴィジュアルになった。
塵のようなパーティクルになった。
私たちのへその緒は切られた。反射しあう言葉だけが、私たちをつないだ。

かわりばえのない毎日が記憶に残らず、
あるいはあまりに多くのことが起こりすぎるせいで
何事にも興味を持たなくなってしまったなら。

そしてまたときどきまとめて死んでみることをせずに
何ごとも等閑視しているなら。

記憶をハードディスクに外在化して、頭はからっぽにしているなら。


私たちは、逆に、きりきりと毎秒死ぬような
毎秒が選択であるかのような状態に立ち戻る。
忘れ去られ切り捨てられる記憶に逆襲される。

意味や価値から切り離される。
私にとって、世界も人も死んでしまう。


                 ☆ ☆ ☆


話が長い!!!!!!!!!!


さて。


きょうは深大寺にいってきたよ。神代植物園でバラフェスタがやっているからだ。
バラ園ってつまんないけど、デガダンスなかんじでいいよね。

こんにちは。
先日、いいことがあったので記念パピコだよ☆☆☆

アンディー・メンテのじすさん(泉和良さん)の小説が発売されていました。
講談社BOXから『エレGY』というタイトルです。

ほんとうに信じられないよ。
うれしいよ。
商業的に認められると思っていなかったもん。
すごくうれしいです。

アンディー・メンテというのは1997年くらいからフリーウェア・ゲームをつくっているグループです。
実質はジスカルドというひとが一人で作っているようです。

わたしは高校生ぐらいのとき、雑誌の付録についてきているミニ・ゲームで知りました。

FF3で、はじめてひくうていに乗ったとき、感動したな。すごい世界拡張感覚だった。
ロマサガで、いつのまにか王様が100代を超えていたときも感動した。気が遠くなる時間だった。
小学生にして年老いたよ。

あるいはグレッグ・イーガンの『ディアスポラ』(これは小説)のラストの、こころぼそくなるような遠さ。

そういう「遠さのクオリア」「せつない何か」に反応する人間にとって、AMの世界観には惹きつけられるものがあった。
   ところで「せつない」って英語でなんていうんだろう! もしかして日本独自?


アンディー・メンテの作るゲームには、大きな物語の断片がそこかしこにあって、文字だけで、いろんなことを想像されられました。作者さえ把握できないような、永遠に語られることのない壮大な物語の、切れ端や、残り香だけがただよってきていた。
実体がない、到達点のない、高みに上ろうとする、せつない憧れだけを感じた。

あるいみで、(…もちろん)物語としては胎動状態だった。未生の胎児だった。抜け殻の言葉だった。

未完成なところも、未熟なところも、幼稚なところも、ぜんぶ好きでした。

だからエレGYのきもちすごくわかるんだ。

この小説は、エレGYというAMファンの女の子と、じすさんの、心の葛藤および愛です。

リストカッターで登校拒否の高飛車な女子高生……という設定だけで引いちゃう人もいるだろうし、じすさんの自己演出した芸術家と実像とのギャップというのも初歩的な悩みだ……って面倒になる人もいるでしょう。

そもそもケータイ小説的な文体・ライトノベル的な文体(……私は、書きたいことと文体がぴったりしているうえに、適度な距離感がある、よい文体だと思うよ。ライノベなので、風景描写とかはないよ!)が読めない人もいるでしょう。

そういうひとにはおすすめしないよ。ぜんぜん。
(どう説明したらいいのかわかんないけど、高橋源一郎はもしかしたら気に入ってくれるかもしれないけど、保坂和志はだめだろう、というか……。失望されるといやだから、いろいろ言い訳してごめん。)

どういうひとにおすすめかというと下流だよ。貧乏人だよ。思春期少年だよ。芸術家だよ。オタクやアキバ系だよ。

で、もし興味をもったひとがいたら、途中ダレても、引いても、最後までよんでほしいな。
きっちり感動させてくれるから。

チャプター5は、私にとってはほとんど完璧で、一字たりともゆるがせにできなにゃい。
「彼女の声が既成の湖畔に触れるとき、涙が出た」なんて、すらっとかけるやつそんじょそこらにいないよ、でもいってる意味、すげーわかるよ。もう四回ぐらい読み返ます。きらきらした幸福が描かれているものが私の栄養なのです。

うーん。すきすぎて、うまくかけない。バイアスかかりすぎてる。

あそうだ、あと、このげんだいにこういう恋愛が成立する、ってこと自体がすごくうれしかった。

とにかく。


こうして世に出たことがうれしいです。
どうもありがとう!

がんばってください。
新刊が出る限り、読み続けるから。
ありがとう。

私もいつか、光を返せるようになりたいな。


追伸:

池上永一『やどかりとペットボトル』は、著者の沖縄の幼年期が語られているエッセイで、やった!発見!ていう面白さでした。
ふにゃー。お母さんのキャラ強烈。笑う。

最近のこと

(1)「オアシス」という韓国の映画が面白かったです。

すみません。ぜんぜん違うじゃん、と言われること覚悟で言えば、これは純度1500%の大島弓子じゃん……と思いました。エッセンスを感じる。というかもう、この角度は。

いくつか、思い出すシーンがありました。
社会に疎外感をかんじ続けているみなさま、よろしければ、見てね。


でもぜんぜん「純愛」じゃないよねー。
純愛というのはこういうものなのかな。わからない。


(2)津原泰水『ペニス』は面白かったです。



小池昌代さんのエッセイのどれかで、「小説とはこの世にある気配をのこすこと」という一文があった。←孫引き。出典不明。

この世に、ある気配を残すこと。


ある気配。
ことばにならず、絵にも描けない、ある気配。
時と共に流れさるあえかな煙のような気配。



話の筋や、登場人物や、感動とか、教訓とかでは、ないのですね。

すごい気配だなあ、というものが読みたい。

いままでそこにひたっていたのに、あらためて見ることがなかった気配が読みたい。


ときが過ぎて、ふりかえったときに、ときの暗闇の向こうにともされる明かりのような気配とか。
交わされることのなかった約束とか、思い出されることのなかった思い出とか。
語られることのなかったお話の妖精のような気配とか。

ゆめうつつに、自分の後頭部をみちゃうようなこととか。


はなしが脱線した。

で、うーん、この小説の気配は……心をとさぐってみて、松本次郎フリージア』(漫画。IKKIで連載中)では!?と思いついた。


ぜんぜんちがかったらごめんなさい。
フリージア』好きにおすすめです。

余談:まじ記名力が悪化していて、「フリージア」が思い出せなかったよー。ショックだよ。でも、「こんなにあたまがアレで、これからどうやって生きていったらいいのだろう」……というような大問題にすぐにつなげないことが精神安定上超重要! てかニンテンドーDSとかやるべき?



(3)ババグーリの石の本買ったよ。
http://www.jurgenlehlshop.jp/jp/books/index.html

めのうの石の写真集です。インドの北西部にある採掘場でひろってきた石。
しろい石の隙間に、黒い宇宙がおさまっているかのようにみえるんです。宇宙卵的。

写真集では、あと、志賀理江子さん『CANARY』がほしいです。
http://www.liekoshiga.de/
書店にいくたびにためつすがめつしているのですが、そのうち買ってしまうでしょう。


このような石を拾いながら暮らしてゆくことができれば、どんなによいことでしょう。

というあこがれも込めています。
石を拾うような仕事をしたい。(←甘いこといってすみません)




(4)私たちは地平線を所有しているか?


牛若丸出版
http://www.matzda.co.jp/


の本はどれも所有欲をくすぐります。


そのなかでも、「borders」という、
地平線のつながった写真集は、コンセプトをしった瞬間にかんどうしました。

というかすでに所有した気がしました。

知るということだけで。

だからものはいらない。

ひるま見えなくても星が輝いているように、
地平線は見えなくてもつねに存在しつづけているのだ。

地平線をおもえ!

地平線の特徴

1。地平線は思われていないときでも消えない。

2。地平線にはたどり着くことが出来ない。

3。ゆえに地平線のむこうをみたものはいない。

4。地平線は未来永劫の存在をつづけ、それを思うもののこころを慰める。

5。地平線は無慈悲である。



これってほとんどかみさまではないか。


(5)       えーん。いろいろあって、つかれました。私はやっぱりだめかもしれないよ(弱気)


(6)この間見た月には存在感があった。


月はとおすぎて立体視できません。が、このあいだ見た月はまわりに雲がかかっていて、ちょうど月にかげができたようになっていて、ボールにライトあてたみたいに立体的だったの。

それで突然、あ、すごい、月って浮かんでるんだ。星は浮かんでいるんだ。この宇宙空間に。


という実体感がせまってきた。すぐに遠のいていったけど。



現代では、宇宙ができあがって、光がまっすぐ進むようになってからすぐの光も見えるようになった。

138億年前の光は、いまもここに降り注いでいる。


でもそのことを実感することはまれだ。というか、そんな生きていくのに必要ない方角の感覚を、私たちはどのように養ったのだろう。これはつまり「気配」を感じ、残そうとする私たちのふしぎでもあるけれど。



(7)ブレイン・マシン・インターフェイスが実現したら


第七感覚がほしいです。共感覚とか。新たな芸術がうまれそう。
しかしどのようにしてかこの生で鍛えることはできないのかしらん。
どっかにまじで研究してるひとがいそうだけどねー。




(8)死んだらどうなるんだろう



ほんとうに全部消えてしまうのかな?


(9)さいきんの癒し系本は『うつうつひでお日記』『はたらくカッパ』『きょうなに食べた?』『遊覧日記』『グーグーだって猫である』、フジモトマサルの動物漫画、とかです。たんたん日記系+不思議テイスト。『血液と石鹸』書店に並んでた。かおうかな。

4月20日。何かわれを忘れて読むようなものを読まないとやってられないと思ったので桐野夏生を読んでいます。
舞城王太郎「みんな元気。」のラストは人はみな可能性の首を切って切りながらあたりまえに生きている、でも愛があるから大丈夫!!!というもので、
私は昨日からそのことばかり考えています。何を見ても、(失われた可能性としての)何かを思い出すという状態で、お手上げです。(しばらく、現実は見ません)